2022年3月とわたし
2022年3月は、ずっと悲しかった。
今だって悲しい。
半分は世界で起こっていることに、もう半分はずっと抱いてきた違和感や他人との分かり合えなさを改めて感じたから。
自分の子供でさえ遠いところにいる。それはずっと感じてきたことだから今更だけど、多くの人が水面でゆらゆら遊んでいるのをひんやりとした湖の底から見上げているような、どこか冷めた眼差しの自分。
2/20から3/31までにInstagramにあげた写真を一部だけど並べてみる。
こう見ると本と花と緑、そして常に何かを作ってた1ヶ月。
そして時々、どうしようもない孤独に押しつぶされ一人で泣いてた1ヶ月。
そしてこの孤独は決して邪魔者扱いするものではないことをわたしは知ってる。
(さあどうする?)孤独は不意をついてささやいてくる。
過去孤独に試されてきたわたしも3月は、梅雨時ほどの涙を流した。
涙の理由はわからない。
いや、本当は知ってる。
悲しいから。
悲しかったから。
生きるリズムの違いをよく感じる。
ダンスに例えるなら、東京ゲゲゲイの隣で盆踊りを踊っているぐらいの。
いつも思う。
今目の前に居る誰かは、あなたが理解し得る人ですか?と。
人に初めて会う時、わたしはその人のことを何も知らない。
前情報はあるにせよ、自分の五感を置いてきぼりにして その人の何を理解できるというのだろう。
肩書きに真実は宿っていない。
見つめなくてなならないのは、その人の生きてきた道のりとそこから得たであろう価値観。
目と耳は案外騙されやすい。
頼りになるのは五感で一番信頼できる嗅覚。
自分でもどうしようもない感情を抱えて、それでも自分に素直に、感性に従い生きよう。