その他

消費されるぼくたち

4年ぐらい前に、小袋成彬くんの「分離派の夏」というアルバムをよく聴いていた。

その時の自分に必要なものがある気がして、聴くと何かが解けるような感覚で。

その中に小袋くんの友人が語るだけのトラックがあって、それが特に好きで今もたまに聴く。

その友人が、スペインのCamino de Santiagoという街までの数百キロを徒歩で歩き通すという旅をしていて、その中で歩きながらこんなことを言う。

「小袋くんに会社を辞めた時の話をしてほしいと言われて、その話はこんな話だったんだけど。

ある時、いつも通り会社の社員証で自動販売機のコーヒーを買おうとして、ピッとカードをかざして。その時、ああこれはなんか、ものを消費する主体である自分が実は、消費されていってるんじゃないかと。

社会という構造の中で自分が、その中に取り込まれてね、消し尽くされていってしまうんじゃないかと。そんな気がして。

で、ああ、これはまずいなと思って。じゃあ、今、本当に何をしなくちゃいけないのかと考えたときに、やはり何かものを作らなきゃいけないなと。

という話を、会社を辞める時に小袋くんにして。」

この語りにとても共感した。

ものを消費する主体はわたしたちであるはずなのに、いつの間にかスマホに、ネットに消費されている。駅のホームや電車の中、至る所でみな斜め下を向きスマホを覗き込んでいる。

少し前まではスマホなどなくとも普通に暮らしていたのに、今やそれがないとソワソワして落ち着かない。スティーブ・ジョブズの仕事を批判するつもりはないけど、産業革命と同レベルで社会が変わったのは間違いない。

NetflixやYoutubeもいつだって観られる。何とゆうことか、これでは時間ばかりが足りなくなるのも当然。

便利で快適で欲をいい感じに満たしてくれる、それらのサービスや端末の威力はすごく、人をいとも簡単に依存させる。つまり、使い手であるはずのわたしたちが、今はそれらに消費されている。

サブスクで音楽を聴き、SUICAで改札を通り、ネットで服を注文して不要になったらメルカリ。映画はネトフリかお気に入りのチャンネル、お腹が空いたらウーバー頼んで解らないことはとりあえずググる。

ざっと書いてみただけでも、見事に消費されてる感がある。

小袋くんの友人が言うように、ポチッとしたり、ピッとすることが人生の至る所に浸透してしまった。

ポチッとしたり、ピッとすることは簡単だ。

そして、一つ一つが浅い。

つまり体験がない。

主体であるはずのわたしたちが実際には、暮らしそのものをスマホに委ねている。悲しいかなそれが現代社会。

断っておくと、ジョブズのことは個人的に尊敬している。自分を貫いた先人として。

本も読んでスタンフォードのスピーチも聞いた。けど、彼は新しい端末が人の脳をハッキングすることをちゃんと説明すべきだったし、然もなくば、タバコのようにこうパッケージに記載しておく必要があった。

「このデバイスをご利用になる前に、必ず医師までご相談ください」って。

そんなことを言いながら、今日もわたしはInstagramを開く。このサービス(企業)が本当に得たいものに乗っかっている。Instagramで得るものなんて殆どないのに。

電車の窓から見える美しい夕焼けに心を奪われたい。

薄暗がりの中灯りが燈り始めた街の色を感じたい。

子どものあどけない表情に見惚れていたい。

それはある意味の反逆。

現代社会に対する、静かな抵抗。

あらゆる解せなさに対する、わたしなりの抗議だ。

暴言も力も要らない。

みんな、ただ忘れてるだけ。

変わってしまう前の自分を。

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