
Around me
確か昨年の10月の初旬だったと思う。
何となくInstagramを眺めているとふとマーガレットハウエルの広告が目に入ってきた。
マーガレットハウエルは以前から好きで10年ぐらい前よく着ていた時があった。最近はシンプルで自分に馴染めば何でもよくなってきた感が濃くなりほぼ同じような服ばかり着ている。
そのマーガレットハウエルが配信しているコンテンツの中にLIFE NOTESというものがあって、内容は『様々な分野で活躍する方々を訪ね、キャリアを振り返り、日常を顧みながら、日々の生活で大切にしていることが語られる対話を記すLIFE NOTES』というもの。
このコンテンツでインタビューを受けている中の一人に、今回ZINEと映像作品でお世話になったアーティストの川崎晃さんがいた。最初に目に入ってきたのは、彼の動きの軽やかさ、何より美しさだった。ダンスは盆踊りぐらいしか出来ないわたしだが、ダンスを観るのは高校の頃から大好きだ。山本太郎が踊っていた頃も知っているしジャミロクワイもAyaBambiも544 6th AveもYoutubeでこれでもかという程に観ている。
ピアノもそうなんだけど、同じ曲でも音が弾く人によって全く違って聞こえる。辻井伸行さんはどんなに難解な曲を弾こうとも鍵盤の隅々まで、音が天使。ラカンパネラを天使が弾いている。最近驚いたのは、中国のピアニストYuja Wang。既に世界中で活躍しているピアニストだそうだがわたしは最近知った。Yuja Wangの演奏もたまたまInstagramで流れてきて音を聴いてハッとなった。感情が鍵盤を撫でているような、柔らかさと強さと魅惑的な存在感全てが音として放たれていた。世界には本当にすごい人がいるものだと、素直に感銘を受けたのだった。

川崎さんの動きの滑らかさ、そして美しさ(力みのない)だけでこの人はどんな人なのだろう?と気になったわたしは、マーガレットハウエルのコラムで川崎晃さんの記事を読み、すぐ目に入ってきたのが『自分のダンスにジャンルや名称をつけたくなくて。踊ること、アートに触れること、服を選ぶこと。僕の中ではそれらが一括りになっています。だから「ダンスをしている」というよりは好きなことをすべて取り入れながら身体で表現をしているつもりです』というものだった。
あ、一緒だと思った。
わたしも自分の表現にジャンルや名称をつけたくない。似合う名称もまだない。
今回ZINEの中に、制作に至る経緯的な文章を載せようかとも思ったのだけど、その想いや経緯をすべて言葉にすることの重要性がそこまであるのかなと問う自分がいて前半は写真、後半は少しのインタビューで構成し最後に川崎さんとわたしのプロフィールを載せた。観る人によっては掴みどころがないZINEかもしれないし、逆に1ページでも何かしら刺さるZINEになるかもしれないけどその余白を言葉で埋めるのはやめた。(4/4 追記あり)
言葉は人間にとって欠かせない伝達道具だ。けれど、どの言葉を選べば気持ちが通ずるのかよりも、どんな間でどんな声で、どんな不器用さで放ってしまった言葉の方が、考えられた言葉の数百倍、数千倍の威力と破壊力を持つ。どこの誰か分からない人が言っても響かない図星の苦言を信頼している人に言われたら2泊3日で旅に出るぐらいには響くし、わたしなら自省してしまうし反発もする。
川崎さんは娘と一つ違いで、撮影の間はそのことを忘れるぐらいにしっかりした人だなと感心していた。わたしは動きのある撮影にそもそも慣れていないこともあり、全身で(不慣れです)オーラを放っていた気がするがそれを川崎さんも見かねたのか半歩先で引っ張ってくれたおかげで、素敵な映像とZINEが出来上がった。親子ほど歳が違うけど、わたしは自分が人間としてまだ未熟なのを知っている。周りが見えなくなるし、人のことは嫌いじゃないけどそこまで他人に興味があるかと言ったらそうでもない。
仕事ではいつも穏やかと言ってくれる人もいれば、土足で踏み込んでくる人には塩対応の極みだったりもする。権力に巻かれている人からするとかなり冷たい人間らしい。ともあれ、あなたに興味がないので程々に愛想よくできるよモードが第一段階。じゃあ興味をもってしまった人には愛想よくできないのかという声が聞こえそうなのでお答えすると、男女問わず興味をもってしまったタイミングで相手も興味をもってくれていることが多いので許されるなら気持ちは素直に伝えたい。その方が後悔しないから。でもそれで相手がどう思うかまでは、わたしにはどうにもできない。他人の気持ちを慮ることと、気を使って何も言わないこととは違うし、誰かを理解していると思うことぐらい傲慢なこともない気がする。

自分のことも自分以外の人間のこともまだよく分からない。
理解できないと知っているから、少しでも理解し合いたいと思うのは人間の素直な欲求じゃないだろうか。わたしは他人にそこまで興味はないけど人間に興味はある。どうしてそんなことを言うのだろう?なぜそんなことをするのだろう?わたしは今何を感じているのだろう?普通に生活していても疑問をあげたらキリがない。だから不器用なりでも言葉を使って、答えを一つ一つゴールに放っていくのだけど、それで一発退場になったらそれはそれで仕方のないこと。ゲームを放棄するよりもずっといい。
お互いに違うということを、違うままに、違うもの同士として対話する。これって簡単そうで簡単じゃないね。どうしても同調しがちになるのは和を重んじる国に住むものとして、DNAレベルで抵抗できないようになっている気配すらある。
あなたとわたしは違うよね、でもそれはごく自然なことだよね、わたしはこんなふうだけど、あなたはそうなのね、っていう視点をもっとフラットにごく当たり前に持てたら、ずっと楽に生きられるしもっと呼吸しやすくなる。で、もうお気付きかもしれませんが話が逸れに逸れて、呼吸がしやすくなる話をしていますが違うんです、ZINEのお話をしたいのです。人は必ずいつかは死ぬよねってことをお話ししたい。
死を意識しない時ほど、生から遠ざかっているとわたしは思っていて、いつも何かしら危機を抱いている節がある。大好きな映画「ロストイントランスレーション」の中で、スカーレットヨハンソンが東京で知り合った映画俳優のビル・マーレイに「あなたは中年の危機ね」と言うシーンがあるのだけど、どの年代でも危機はあるし、大なり小なりの危機を誰しも抱えながら日々生きている。
生死というと大袈裟に聞こえるけど、わたしはいつか死ぬしこれを読んでくれているあなたもいつかは死ぬ。それって生まれた以上、不可避。だから今日をどう生きるかって自分に問わなきゃもったいないんじゃないかと、最近よりそう思うようになった。呼吸の話から次は死生観の話になってしまった。これはわたしが根暗だからというわけではなくもっと日常的に話されていいことのように感じるのです。
またZINEについては折を見て書きたいと思います。

